【どうしたら喜んでもらえるか - 考え続け、発想を伸ばしていく】 ~ 小林一三翁(「内海新聞」第4号より) ~ [ビジネス]
我師匠の株式会社ジンテック創業者の内海会長様の「内海新聞」からです。
私は生まれも育ちも関西・大阪(東大阪)で、大学には阪急電車を利用していました。
ですが、恥ずかしながら、その阪急電車のことも創業者の小林一三さんのことも
全く知りませんでした。
この「内海新聞」でその小林さんのことを知って本当に勉強になり、よかったと思いました。
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宝塚には、宝塚歌劇があります。宝塚歌劇はあまりにも有名です。
これを考えたのが小林一三さんです。
宝塚歌劇の前には花道といいまして、桜並木があります。
この花道の真中あたりにおじいさんの胸像があります。
小林一三翁とあります。
小林一三さんが山梨から出て、三井銀行にはいり、そこからの出向で箕面有馬軌道(みのうありま)という
阪急電鉄の前身となる私鉄会社の専務になります。
いつもアイデアを考えている人でした。
本当は小説家志望の文学青年だったのですがどういう流れか電鉄会社に入ってしまったのです。
箕面有馬軌道は、ほとんど乗客のいない、田舎の電車です。
小林さんは、その電車に乗客と一緒に乗ってみました。
窓の外は、のどかな田園風景が広がります。
最初はとても楽しいのですがすぐ飽きてしまいます。
すると乗客は退屈で、電車の木枠の木の節を数えたり、うたたねしたりまわりをきょろきょろしたり、
なんとも落ち着きません。
それを見ていて、小林さんは「そうだ、社内に広告を張ろう」というアイデアが出て、吊り広告が誕生しました。
ついでに駅にも広告看板を立てよう・・・と貧乏鉄道は、副収入を得るようになりました。
今では当たり前です。
また、ある日終点の駅に食堂をつくろうということになりました。
でもなるべく経費のかからない、しかも回転の速いメニューにしようと名物ライスカレーが誕生します。
これは安くてうまいと結構評判でした。
あまりにも、食堂が流行ったので、横に日曜雑貨も置いてみました。
なべやかん、まな板などです。
これも飛ぶように売れました。
小林さんは、視察に来ました。
社員に「このやかんの値段はいくらかね?」と尋ねました。
「**円です。 」
「では、こちらのは?」
「はい。 **円50銭です」
聞くたびに彼は、値札を確かめている。
小林さんは社員にいいました。
「いちいち値段を確かめて非効率的ではないか?それにお客様も値段が全部違うので、
予算がたてにくい。ここは、どうだ全商品1円均一にしてみては。
損するものもあるが得するものもある。でもこれはこちらの都合だ。
お客の立場になって買いやすい環境をつくればどんどん売れる。
売れずに在庫をもつことが一番危険なことだ。」
これは、今流行っている100円ショップの原型です。
すでに何十年も前に小林さんは始めていたのです。
その駅前食堂は流行りました。
ある雨の日、乗客が電車から走って、駅前食堂に入っていくのを小林さんは見つけました。
小林さんは、駅から駅前食堂まで雨に濡れずに行けるよう屋根を作るよう指示しました。
するとさらにお客が増えたので、野菜や果物、肉や魚を並べました。
そうすると、夕食の買い物をする乗客が増えてきました。
小林さんは、思いきって、この駅前食堂を二階建てにしました。
二階では相変わらずライスカレーを売っています。
一階では、日曜雑貨や肉・野菜・魚を売っています。
やがてこれは4階建てになりました。
一階では食料品、二階では、日曜雑貨小間物、3階4階が食堂と、なにかへんてこりんなビルができました。
四階の食堂では、福神漬けが食べ放題としました。今の吉野屋の牛丼のようです。
そうして、数年後これが大阪梅田にある阪急百貨店となってゆきます。
しかし、まだ乗客が増えません。
小林さんのアイデアはすべて乗客を増やすためのアイデアで本業を絶対に逸脱させません。
なにか、家族で遊びにいける催し物をつくろう!ということで、宝塚に動物園をつくり、
武庫川という川の川原から沸く温泉でヘルスセンターを作りました。
大人二人と子供二人の四人家族で遊びにきても、十分おつりがくるような料金設定にしました。
でもまだ、なにか足りません。
その頃、高島屋の屋上で少年鼓笛隊というのがあって、子供の男の子たちが、上手に楽器を
演奏するショーをやって、たいそう人気を博していました。
小林さんは、これを女の子にさせたらどうだろう。
楽器だけじゃなくて、芝居も一緒にさせればなお面白いのではないか?
そういうことで、誕生したのが宝塚歌劇です。
最初のだしものは、桃太郎を題材にした「どんぶらこ」でした。
珍しいこともあって、非常に好評でした。
この第一期生が天津乙女(あまつおとめ)さんです。
これでも、土曜とか日曜は乗客が増えますが、平日はがら~んとしています。
小林さんはいつも何かを考えています。
今日も、車掌の格好をして電車に乗りこみ、手動のドアの開け閉めを手伝っています。
周りは何もない田園風景。
「そうだ」小林さんは思いつきました。
ここに住宅を建てよう。
今は皆大阪市内に住んでいて、この宝塚は行楽地だけれど、きっと将来ここは良い住宅地になる。
ここから大阪に通勤する事だってきっとあるに違いない。
そうだ、ここに住宅をつくろう。そうしたら通勤客の乗客が増えるはずだ。
小林さんはさっそく設計にとりかかりました。
「空気や水が美味しく、健康に良い田園都市宝塚」キャッチフレーズもでき、宅地造成にとりかかりました。
この時から、小林さんの宅地開発をずっと支えて助けてきたのは、地元の大工の竹中です。
彼はやがて竹中工務店をいう日本屈指の土建業を興します。
さらに小林さんは考えました。これからはスポーツだ。
何かスポーツを電車の沿線で開催しよう。
豊中(とよなか)という駅があります。
そこの旧制豊中中学という学校があり、そこで、全国中学野球大会を開催しました。
全国から野球少年がここに集まり、ラジオ中継も入り大盛況です。
すでに夏の恒例の行事として定着してゆきました。
その後、この全国中学野球大会は、全国高等学校野球大会と名称を変え、
豊中グラウンドから甲子園球場へと場所を換え、数多くのプロ野球選手を生み出すことになります。
小林さんは東京へと進出します。
そして出来たのが東京宝塚。これが後の東宝です。
そして、戦後、自治大臣となり政界にも担ぎ出されることになります。
東急の五島さんは小林さんを師と仰ぎ、小林さんのしたことをどんどんコピーしてゆきました。
彼が考えたアイデアはここには書ききれません。
しかしすべて乗客を増やすためだけなのです。
彼はいつも自分の足元を掘ることしかしませんでした。
当時は突拍子もないアイデアだったかもしれませんが、彼流の理屈があったようです。
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ですが、恥ずかしながら、その阪急電車のことも創業者の小林一三さんのことも
全く知りませんでした。
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宝塚には、宝塚歌劇があります。宝塚歌劇はあまりにも有名です。
これを考えたのが小林一三さんです。
宝塚歌劇の前には花道といいまして、桜並木があります。
この花道の真中あたりにおじいさんの胸像があります。
小林一三翁とあります。
小林一三さんが山梨から出て、三井銀行にはいり、そこからの出向で箕面有馬軌道(みのうありま)という
阪急電鉄の前身となる私鉄会社の専務になります。
いつもアイデアを考えている人でした。
本当は小説家志望の文学青年だったのですがどういう流れか電鉄会社に入ってしまったのです。
箕面有馬軌道は、ほとんど乗客のいない、田舎の電車です。
小林さんは、その電車に乗客と一緒に乗ってみました。
窓の外は、のどかな田園風景が広がります。
最初はとても楽しいのですがすぐ飽きてしまいます。
すると乗客は退屈で、電車の木枠の木の節を数えたり、うたたねしたりまわりをきょろきょろしたり、
なんとも落ち着きません。
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また、ある日終点の駅に食堂をつくろうということになりました。
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これは安くてうまいと結構評判でした。
あまりにも、食堂が流行ったので、横に日曜雑貨も置いてみました。
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小林さんは、視察に来ました。
社員に「このやかんの値段はいくらかね?」と尋ねました。
「**円です。 」
「では、こちらのは?」
「はい。 **円50銭です」
聞くたびに彼は、値札を確かめている。
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これは、今流行っている100円ショップの原型です。
すでに何十年も前に小林さんは始めていたのです。
その駅前食堂は流行りました。
ある雨の日、乗客が電車から走って、駅前食堂に入っていくのを小林さんは見つけました。
小林さんは、駅から駅前食堂まで雨に濡れずに行けるよう屋根を作るよう指示しました。
するとさらにお客が増えたので、野菜や果物、肉や魚を並べました。
そうすると、夕食の買い物をする乗客が増えてきました。
小林さんは、思いきって、この駅前食堂を二階建てにしました。
二階では相変わらずライスカレーを売っています。
一階では、日曜雑貨や肉・野菜・魚を売っています。
やがてこれは4階建てになりました。
一階では食料品、二階では、日曜雑貨小間物、3階4階が食堂と、なにかへんてこりんなビルができました。
四階の食堂では、福神漬けが食べ放題としました。今の吉野屋の牛丼のようです。
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小林さんのアイデアはすべて乗客を増やすためのアイデアで本業を絶対に逸脱させません。
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2008-08-13 14:59
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